書目分類 出版社分類



更詳細的組合查詢
中國評論學術出版社 >> 文章内容

“御後絵”背景圖案之考察——以日月青海波屏風與香爐的研究爲中心

  【中文提要】在琉球王國15世紀至19世紀約400年間,有一種傳承已久的繪畫模式。那就是 “御後繪”。“御後繪”作品——琉球王朝第二尚氏歷代國王的肖像畫,放置在緊挨着首裏城的王家宗廟——円覚寺。但是,這些作品在冲繩戰期間都已遺失,現存的只有戰前鎌倉芳太郎拍攝的10張黑白照片。

  御後繪與中國、韓國、日本等東亞的帝王像相比,可以看出它是由幾部分的圖像搆成的。即坐在畫中央椅子上的國王、由各種陳列品、器皿所搆成的宫廷背景、手持各式道具的家臣們這三部分搆成。相比之下,中國與韓國的帝王圖的結構就比較簡單,一般是中間爲皇帝,背景爲白色或是背景爲畫着龍的屏風,地板爲瓦片或是毛毯。日本的天皇或將軍的肖像畫也很簡單,就是在中間畫着身着正裝,坐於榻榻米上的天皇像或將軍像。

  “御後繪”裏畫有宫殿擺設的背景圖,家臣隨從,身着明朝衣服坐在椅子上的琉球國王,它不是單純的肖像畫,是展現國王形象的一種特别的繪畫作品。

  目前爲止,對 “御後繪”中國王的衣裳,中國王朝交替中的衣冠制度的變化而引發的國王形象的變化,都已有所研究。本次發表,主要以古琉球時期的國王御後繪中所畫的日月青海波屏風、或是近世的國王御後繪中代替屏風的香爐爲中心,考察以幕簾、帷帳搆成的圖畫背景,以及畫中國王的玉座。

  關於畫作中的國王的衣裳,根據傳世資料已有了不少研究,但是關於日月青海波屏風、香爐以及雕刻華麗的玉座,與首裏城内的兩處玉座“御差床”、朝拜儀式時的“唐玻豊”的玉座的比較還未有人研究過。本次發表主要論述重建的首裏城、宫廷内的禮儀在“御後繪”中表現出來的場景變遷以及畫像的意義。

  【關鍵詞】御後繪、首裏城、玉座、御差床、唐玻豊、青海波屏風、香爐、幕、賬、朝拜之御規式、円覚寺

  【要旨】 琉球王國には、15世紀から19世紀までの約400年間にわたり、描き続けられた一つの絵畫様式が存在した。それは「御後絵」とよばれた琉球王家第二尚氏歴代國王の肖像畫で首裏城に隣接する王家の宗廟、円覚寺に安置された。しかし、それらの作品は冲縄戦で失われ、戦前に鎌倉芳太郎によって撮影された、10枚のモノクロームの寫真で図像を確認出來るのみである。

  御後絵は、中國や韓國、日本などの東アジアの帝王像と比較すると、いくつもの図像から成り立っていることが分かる。その図像は中央の椅子に座った國王、宮廷内を示す細々とした什器が配置された背景、様々な道具を手にした家臣団の三つの部分で搆成されている。それに対して中國や韓國の帝王像は、中央に皇帝を描き、背景は真っ白か、龍を描いた冲立と、床は敷瓦、或いは絨毯と単純な搆造となっている。日本の天皇や將軍などの権力者の肖像畫についても衣冠束帯を纏い、畳に座る像主を中央に配したシンプルなものとなっている。

  宮殿の描寫を背景に、家臣団を従え、椅子に腰かけ明朝の衣裝を纏った國王が描かれた「御後絵」は、単なる肖像畫ではなく、國王のイメージを表現した特别な絵畫作品であったと考えられる。

  これまで、御後絵の國王衣裝について、中國の王朝交代にともなう衣冠制度の変化やその衣冠制度に組み込んだ琉球王國における國王イメージの変遷から論じてきた。本発表では、古琉球期の國王の御後絵に描かれた日月青海波屏風、その屏風に代わるようにして近世琉球期の國王御後絵に表れる香爐などを中心に、幕や帳などの背景の分析し、御後絵の國王が描かれた玉座について考察を行う。

  描かれた國王の衣裝については、伝世資料を中心に研究が進められてきたが、日月青海波屏風や香爐、細かい背景などで飾られた玉座については、首裏城内に二ヶ所ある玉座御差床や、朝拝の儀禮の際に唐玻豊に設けられる玉座などとの比較が行われていない。本発表では、首裏城の再建や宮廷内の儀禮などから御後絵に描かれた場面の変遷とともに図像の意味について論じていく。

  【キーワード】御後絵、首裏城、玉座、御差床、唐玻豊、青海波屏風、香爐、幕、帳、朝拝之御規式、円覚寺

  はじめに

  琉球王國には、15世紀から19世紀までの約400年間にわたり、描き続けられた一つの絵畫が存在した。それは「御後絵」とよばれた琉球王家第二尚氏歴代國王の肖像畫で首裏城に隣接する王家の宗廟、円覚寺に安置された。しかし、それらの作品は冲縄戦で失われ、鎌倉芳太郎によって撮影された、10點のモノクロームの寫真で図様を確認出來るのみである。

  御後絵を中國や韓國、日本などの東アジアの帝王像と比較すると、いくつもの要素から成り立っていることが分かる。御後絵は中央の椅子に座った國王、宮廷内を示す細々とした什器が配置された背景、様々な道具を手にした家臣団の三つの部分で搆成されている。それに対して中國や韓國の帝王像は、中央に皇帝を描き、背景は何も描かないか、龍を描いた冲立、床は絨毯と単純な搆造となっている。日本の天皇や將軍などの権力者の肖像畫についても衣冠束帯を纏い、畳に座る像主を中央に配したシンプルなものとなっている。

  これまで、御後絵の図像に関する研究は、豊見山和行

  、原田禹雄、著者によって、國王を表象する、その衣裳について詳細な研究が行われている。これらの研究によって、國王衣裳が、中國の王朝交替などの國際情勢だけでなく、政治的な改革により変遷する國王イメージによって変化していくことが明かになっている。対して御後絵の特徴の一つである、設えおよび道具類の図像については、佐藤文彦によって御後絵と東アジアの帝王像の比較による、獨創的な研究が行われているのみで、その蓄積は十分ではない*。

  本稿では、御後絵に描かれた多様な道具類について、東アジアで共有する図像イメージを視野に入れると共に、新たに琉球の伝統的な世界観を加え、その意味について明らかにしていく。また、研究を進めるにあたっては、首裏城内に二ヶ所ある玉座=御差床や、朝拝の儀禮の際に唐玻豊に設けられた玉座、御後絵が祀られた円覚寺など、琉球國王を象徴する場所との比較も行っていく。 

  1.御後絵について 

  1-1.御後絵の製作実態

  御後絵は何度か描き替えられており、その際に図像が変化した可能性やその程度を検討する必要がある。特に1717年(康煕56、尚敬5)、御後絵は円覚寺御照堂の壁畫から掛け軸となり、表具の形式にあわせて図像が大きく変わった可能性がある。その製作については、王府に屬する絵師達が公務として行っていることから、王府の意向が反映されていることを前提とする必要があるだろう

  。清代の國王御後絵の衣裝には龍など、國王の威厳を象徴する図像が描かれているが、冊封に際して、國王のイメージを視覚化する、衣裝やそれらの裝飾について、儒教の儀軌に詳しい部署が畫面の搆成を検討しながら図案を作成していた形跡がある。

  久米村方「丙寅冠船之時上様御裝束考帳」には冊封儀禮に際して、儀禮のプログラムにそって、國王衣裝の種類、色や裝飾品について記載されている。また、衣裝の模様についても、絵師主取次男泉川親雲上の手による図面が確認されている。國王の権威を表象する國王衣裝の製作に當たっては、職人だけでなく典禮の諮問機関的な久米村が監修し、絵師がデザインを整えるなど、幾つもの組織が関わることで、王府の意向を具體化していったと推察される。御後絵の製作においても、王府の意向を反映し、その図像は、その時代、その時代の國王イメージを具現化したものと考えられる。

  御後絵は、大きく分けて像主である國王、設えおよび道具類、國王に供奉する家臣団から搆成されている。尚真王から尚育王まで御後絵を搆成する三つの要素の変化は一定の傾向があり、その描き換えにおいて當代の服飾を反映した改変が行われていない。こうした、御後絵の描き換えや修復に際して、王府が図像の原本として參考にしたのが、後述の、國王の顔を記録した半身像や、御後絵の全體像が描かれた大小の巻物の控えであったと考えられる。恐らく、王府の意向の元、御後絵の図像は、過去のものを継承しながら、時代ごとの國王イメージを反映し、さらに、修正や修復においては控えに基づきながら描かれていったと考えられる。

  1-2.鎌倉芳太郎撮影の10點の御後絵について

  冲縄戦で原本が失われたため、戦後の御後絵研究は、鎌倉芳太郎の撮影した10點の寫真を、専ら研究対象にして行われてきた。御後絵の図像研究は、豊見山和行、原田禹雄、佐藤文彦、筆者などによって行われているが、本畫や控えなどの數種類が存在している中で、鎌倉芳太郎に撮影された10點の御後絵の來歴に関する研究が行われてこなかった。

  本稿では図像研究のため、本鎌倉芳太郎の撮影した御後絵について、移動の経緯や作品の位置づけについて確認していく。

  鎌倉芳太郎が撮影した御後絵は『尚円王御後絵』(図1)、『尚真王御後絵』(図2)、『尚元王御後絵』(図3)、『尚寧王御後絵』(図4)、『尚豊王御後絵』(図5)、『尚貞王御後絵』(図6)、『尚敬王御後絵』(図7)、『尚穆王御後絵』(図8)、『尚灝王御後絵』(図9)、『尚育王御後絵』(図10)の10點である。この10點と王統図を比較すると、第二尚氏は王統を開いた尚円王の即位から、琉球処分の尚泰王の退位に至るまで、19代続くのに対し、御後絵は10點しか撮影されなかったことが分かる。2代尚宣威王については、尚真王の母である、尚円王の妃宇喜也喜の謀略によって王位を追われたことが指摘されており

  、王統におけるその存在が復雑な事情を擁している。そのため、御後絵は元々なかったと考えられる。19代尚泰王の御後絵は、王國崩壊後の1901年(明治34)に尚泰王が東京で死去しており、御後絵が描かれた形跡がない。以上のことから19代の内、17代の王の御後絵があった可能性を指摘できる。鎌倉は撮影されなかった7點について、當時、尚家の係の役員に探してもらったが見つからなかったと記している

  。以上のことから、もともと17點の御後絵が存在しており、鎌倉は確認出來た10點を撮影したことが分かる。

  撮影された10點以外にも、御後絵は大小の控えなど數種類あったことが確認されており、分析を行う御後絵について、その出所を整理しておく必要があるだろう。

  鎌倉は當時の狀況について、円覚寺での御後絵の管理が厳重であったため、住職より原本の拝観を許可されなかったと述べている。そのため、戦前中城御殿で撮影した御後絵について、鎌倉は首裏城にあった控えだと認識していた。しかし、戦前、中城御殿に伝來していた寶物の管理に関わっていた真栄平房敬は、円覚寺の御後絵は、明治の中頃には中城御殿へ移されていたと證言している。この證言より、円覚寺の御後絵はすでに中城御殿にあり、1925年(大正14)3月6日、鎌倉が円覚寺で調査できなかったのはそのためだと考えられる。また、同年10月2日、鎌倉とは别に、真境名安興と比嘉朝健、百名朝敏が中城御殿で御後絵を調査しており、真境名は調査内容について次のように報告している。

  八六  御後絵について

  大正十四年十月二日尚家にて御後絵を拝観す。

  ①尚円  

  ②尚真 豊に候似たり。

  ③尚清  

  ④尚元  顔瘠削 史に多病とあるには符號するものの如し。

  ⑤尚寧

  ⑥尚豊  特徴少し。

  ⑦尚賢

  ⑧尚質  円満、柔和の相貌あり。

  ⑨尚貞  白□多し、円満。

  尚純  黒髪蓬々異彩あり。武勇馬を好む性とよく合致す。

  ⑩尚敬                                                          

  k尚哲

  l尚穆  尚敬と相貌以たり。

  m尚益  太子の像(鉢巻)王冠ナシ。

  n尚温  白晢豊頬、冊使の記述の如し。

  o尚成  尚温と克く似たり。

  p尚灝  顔稍瘠す、頑落つ、白すう混ず、長髯なり。

  q尚育  尚灝と能く似たり、尚泰と似ず。

  一、御後絵四通あり。

  一、Ⅰ軸物は見ざりき、巻物三通あり(頭部)。

  Ⅱ一は等身大の如く顔面のみ能く寫し服裝は疎にせり皆赤色なり。

  Ⅲ一は像稍小なるも全體(中には背景もあり)克く寫せり。殊に立派に感ぜらる。

  冠は大體三つに分れたり。

  王冠、鉢巻、紗帽。

  服の彩色。

  香爐(金色)を前に置き椅子による像。

  香爐は國王は皆台に載せ太子は地上に置けり。

  椅子の後には彩色の衣服の如きものをかけたり。

  Ⅳ太子(冊封を受けざる王)の鉢巻、彩色美し。

  王冠は搆造大體同じきも珠玉の色は異なり 。えいあり餘りしものは王冠の簪の如きものに折り返してかけたり。皆右方にかけたるも中には左方にかけしもあり。何か理由あるなるべし。

  一、Ⅴ尚成王の幼年像、冠なし、衣彩美し。金らんの帯を前に蝶の如く結べり。

  背景

  一、供奉の重臣を描けり。皆正裝衣冠せり。 皆立像なり。

  手に支那流の団扇の如きものを左右より奉せしあり(一対)

  中山伝信録の挿絵尚敬王の像の背景に似たり。

  一、中には(上代)背景供奉の臣は皆捧持せしものあり。

  一、尚純公の背景には馬をあしらへり。

  多髯殆んど顔面あらはれず。顔短、精悍の気眉宇に溢る。

  一、最も小なる巻物は像も亦略筆、彩色同じ。

  一、Ⅵ大は巾三尺許  像は大なり。

  一、次も巾三尺許  像は少なり。

  一、Ⅶ次は巾二尺許  像最小。

    例へば尚純の多髯も一筆二筆にて太くあしらへるが如し,

  一、皆特色あり。

  (丸および黒丸で囲んだ數字、傍線は筆者による)

  以上の記事より、國王の「御後絵」が17點、王子の「御後絵」が1點あったことが分かる。

  下線部ⅡⅢⅥⅦから巻物が大小二通りあったことが分かる。

  下線部ⅣⅤから王であっても冊封を受けていない王は鉢巻または無冠であることの2つを指摘することができる。

  一尺=30.3㎝から幅90.9㎝の巻物が2種類、幅60.6㎝の巻物が1種類、合計3種類の巻物があったことが分かる。これに鎌倉が撮影した軸物を加えると、1925年當時、中城御殿には4種類の御後絵があったことが確認できる。

  また、真境名とともに御後絵を閲覧した比嘉は、閲覧した御後絵について冲縄タイムスに論考を寄稿している

  。比嘉の記事より調査の狀況をまとめると、次の3點に要約できる。

  (1)七夕の蟲干しを兼ねた陳列が秋分に延期されたこと。

  (2)日が高くなっていた、午後四時に遅れて訪れたために軸物の御後絵(冲縄一千年 史像載録源本図)はすでに片付けられて見られなかったこと。

  (3)御軸物と呼ばれる御後絵は、百名朝敏氏の説によると巻物の半身像に対して全身像で周囲に臣下が取り巻き、その大きさは横七尺(231㎝)、縦八尺(264㎝)であったこと。

  以上の鎌倉、真境名、比嘉の文章や真栄平の證言から、御後絵の所在について次のことが確認出來る。

  (1)明治の中頃に御後絵は円覚寺から中城御殿へ移管されていた。

  (2)中城御殿に保管されていた御後絵は、軸物が1種類、巻物大が2種類、巻物小が1種類、合計4種類あった。

  (3)真境名や比嘉は軸物の御後絵を見ていない。

  (4)巻物には17名の國王と1名の王世子の肖像がおさめられていた。

  (5)巻物に17名の國王の御後絵がおさめられていたことから、軸物も17名の國王御後絵があった可能性がある。

  (6)鎌倉は一日という限られたスケジュールの中で、尚家から提供された10點の國王御後絵の撮影を行った。

  (7)巻物大の2種類、小が1種類あり、中身は実物大の半身像と、背景を含めた全身像のものがあった。軸物には、國王17代と國王に就任する前に死去した王世子1名の肖像が納められていた。

  (1)~(7)より、鎌倉が撮影した10點の御後絵は、円覚寺に奉安されていた原本である可能性が極めて高いといえる。さらに、軸物の原本以外に、歴代17名の國王の顔を記録した半身像と、御後絵の全體像が描かれた大小三巻の巻物の控えが殘されていたことが確認出來る。

  2.御後絵の設えおよび道具類の図像 

  2-1.御後絵に描かれた設えおよび道具類のモチーフ

  『尚真王御後絵』(図1)から『尚育王御後絵』(図10)までの10點に描かれた、國王像を中心に、人物や什器、設えなどの図像を抜き出し、分類すると、(表1)のとおりになる。(表1)から10點の御後絵は、(図11)、(図12)のとおり國王、設えおよび道具類、國王に供奉する家臣団の3つの畫面から搆成されていることが分かる。この3つの要素は10點の御後絵、全てに共通している。また、「設えおよび道具類」は、時代ごとに変化するが、表2と(図13)、(図14)のとおり、(①垂飾、②横幕、③冲立、④格子戸、⑤欄間風建具、⑥道具、⑦椅子、⑧香爐、⑨磚)の9つの図像を抽出することが出來る。本稿では御後絵を搆成する三つの畫面のうち「設えおよび道具類」から抽出された9つの図像について、その意味や変遷の要因について考察を行う。考察に際し、①垂飾や②横幕などの関連性が强いと思われる図像についてはまとめて論述していく。

  2-2.①垂飾、②横幕

  『尚円王御後絵』(図1)から『尚豊王御後絵』(図5)まで、上から下げられた垂飾は無地となっている。対して國王の左右を飾る横幕は横を向いた龍が配されている。横幕にあしらわれた龍の爪は『尚円王御後絵』(図1)、『尚真王御後絵』(図2)、『尚豊王御後絵』(図5)が四爪、『尚元御後絵』(図3)、『尚寧王御後絵』(図4)が三爪となっている。

  無地であった垂飾は『尚貞王御後絵』(図6)に龍文が表れ、『尚敬王御後絵』(図7)以降に寶珠龍紋となる。垂飾の龍文は何れも四爪となっている。國王の左右を飾る横幕は『尚貞王御後絵』(図6)から『尚灝王御後絵』(図9)までが大きな柄の蜀江錦、『尚育王御後絵』(図10)では牡丹唐草となっている。17世紀以降の琉球王國において蜀江錦は、『中山世鑑』、『中山世譜』の裝丁に使われている他、國王や王子按司の帯として定められた、格の高い布であった。

  『尚円王御後絵』(図1)から『尚豊王御後絵』(図5)の冲立には海上に、瑞雲に囲まれた色の濃淡の違う2つの天體が描かれている。この2つの天體は、國王の背景の冲立に描かれていることから、國王を象徴する太陽と、対になる月だと思われる。白黒寫真であるため、日月の判斷は難しいが、明度の暗い右の天體が赤色に塗られた太陽で、明度の明るい左の天體が白色に塗られた月だと考えられる。海上を示した波の模様と、その上に浮かぶ2つの天體から、國王の背後に配置された冲立の図像は海日月瑞雲であることが分かる。日月の配置は『尚真王御後絵』(図1)から『尚豊王御後絵』(図5)まで、一貫している。

  國王の背後に配された冲立は『尚貞王御後絵』(図6)から畫面全體を覆うように広がり、模様も海日月瑞雲から霞風の瑞雲模様になる。鎌倉芳太郎によれば、『尚貞王御後絵』の背後は「金ハク」となっており、瑞雲模様が金色に輝いていたことが分かる。金色の瑞雲模様は、『尚敬王御後絵』(図7)以降に冲立のフレームが消え、國王の背景全體に広がっていく。

  2-4.④欄間風建具、⑤格子戸、⑥道具

  『尚円王御後絵』(図1)から『尚豊王御後絵』(図5)には④欄間風建具、⑤格子戸、牡丹唐草模様が描かれており、5點の御後絵とも、とくに図像の変化はない。ただ、『尚豊王御後絵』(図5)は畫面が縦長であるため、欄間風建具の上に三段の樑がある。國王がいる空間を印象的に示すためか、左右に⑤格子戸があり、それぞれの格子戸の背後に⑥道具が描かれている。道具の内容は、二段の飾台の上に、花が生けられた花瓶、火道具と香爐からなる香道具、燭台、書籍4冊が置かれている。花瓶に生けられた花は牡丹が多いが、『尚寧王御後絵』(図4)は菊となっている。香道具についても『尚元王御後絵』(図3)、『尚寧王御後絵』(図4)には円形の香合が描かれている。また、道具類の図像は香爐や書籍など、韓國の文房図と共通するモチーフが幾つか描かれている。道具の香爐と文房図の香爐を比較すると、道具より文房図のものは足が高く描かれ、図像の意匠が異なっている印象を受ける。また、文房図を搆成する図像は、香爐や書籍以外に、筆などが描かれており、文字通り士大夫の書斎の道具が描かれている。対して道具の図像には、文房図で重要であると考えられる筆が描かれておらず、香の道具など左右対稱となっていることから、日本の室町時代の三つ具足などの唐物趣味の床の間を仿彿とさせる。

  2-5.⑦椅子、⑨磚

  『尚円王御後絵』(図1)から『尚豊王御後絵』(図5)の國王が腰掛ける椅子は、背もたれに格子に花柄の布が掛けられ、膝掛けに龍があしらわれている。また、足下には足置きが備え付けられている。『尚貞王御後絵』(図6)以降の國王の椅子は、「」と同じ形態となっており、背もたれに菊唐草の布が掛けられている。

  10點全ての御後絵の床には、花菱模様の⑨磚が敷かれている。『尚元王御後絵』(図3)、『尚寧王御後絵』(図4)の磚の敷きかたは、畫面に対して水平になっている。たいして、殘り8點の御後絵の磚の敷きかたは畫面に対して交叉している。

  2-6.⑧香爐

  『尚貞王御後絵』(図6)以降の御後絵から國王の手前に、盆に載った香爐が描かれる。香爐は3本足の鼎型になっているが、『尚貞王御後絵』(図6)のものは、4本となっている。『尚敬王御後絵』(図7)以降のものは鼎型となっており、足が3本あるうちの1本は、國王に向けられている。その蓋は『尚貞王御後絵』(図6)から『尚育王御後絵』(図10)まで、何れも、正面を向いて屈伸する獅子の雕刻があしらわれている。

  3.冲立について

  中國において屏風あるいは冲立がいつ頃あらわれたかわからないが、漢王朝までには、政治的なシンボルとして文獻に登場しているという。『禮記』には、正式な謁見で皇帝が冲立の前に座して南面するという記述があり、この記述にもとづく伝統は最後の王朝、清が倒れるまで連綿と続いていく。ウー·ホンは、この皇帝の背後に配置された冲立について、象徴的な空間を搆築するモデルを提供していると指摘している。

  當然、冊封國であった琉球においても『禮記』の記述とその効果は意識されており、『尚真王御後絵』(図1)から『尚貞王御後絵』(図6)の國王の背後に描かれた冲立は、琉球王國における國王のイメージを表現する上で、その衣裳と同じように重要な役割をもっていたと考えられる。

  3-1.中國における太陽が描かれた屏風と「天保九如」

  『尚円王御後絵』から『尚豊御後絵』までの冲立には海上に、瑞雲に囲まれた日月が描かれている。『尚貞王御後絵』(図6)から冲立は面全體を覆うように広がり、模様も海日月瑞雲から金色に輝く霞風の瑞雲模様になる。

  中國には、この「海日月瑞雲」と類似する図像として、「旭日東昇」(図15)が存在する。「旭日東昇」(図15)は、中國の歴代王朝の官衙の壁や冲立の裝飾として用いられていた。野崎誠の『吉祥図案解題』で、この図像は、陞官を寓意するものと説明されているが、恐らく、官衙で用いられる場合、意味は変化し、皇帝の権威や天體の運行のように正確に政治が行われることを示したのではないかと考えられる。1638年に刊行された『瑞世良英』の挿絵には、「旭日東昇」が役所のどのような場所に描かれたのか確認出來る。『瑞世良英』の挿絵「得修懐感」(図16)、「恵洽教明」(図17)の2點は、いずれも、水面から上空に昇る太陽が冲立に描かれており、その前には長官のような人物が居る。冲立に描かれた図像は、月が描かれていない點や、太陽が大きく描かれている點など御後絵とは異なっている。ただし、長官などの最も重要な人物の背後に冲立を置く用い方は、御後絵と共通している。

  図像ではないが、新婚の皇帝と皇后が初夜の三日間を過ごす紫禁城坤寧宮に置かれた、新婚用のベッド「喜牀」の上には日月の文字の扁額が掲げられている。「日昇月恒」は『詩経』小雅の「天保九如」の一節を踏まえた成語で、次のとおりに普遍的な九つの自然現象を抽象化し、王室の繁栄と存続とともに、その繁栄を國民と一緒に享受する内容になっている。

  1、山の如く。2、阜(大きな土山)の如く。3、岡(山の背)の如く。4、陵(大きな阜)の如く。5、川が遍く流れるが如く。6、月が満ち欠けをくり返すがごとく(如月之恒)。7、日が昇ることを繰り返す如く(如日之昇)。8、青山が欠けたり崩れたりせず聳え立つが如く。9、鬆と柏(檜が常に青々と茂る如く。)

  九如の中で、日月は天象の代表として「永遠の生命」と「無限の恵」を表している。また、日月の扁額が、坤寧宮の「喜牀」の上に掲げられていることから、王室の繁栄と存続と共に、日月はそのまま「太陽=皇帝」、「月=皇后」を示していると考えられる。

  周知のとおり、『詩経』は五経に含まれる儒教の経典の一つであり、大阪金剛峯寺『日月山水図屏風』などにみられるように「天保九如」をテーマとした絵畫作品が東アジア諸國で製作されている。

  3-2.朝鮮王朝の『五峰山日月図屏風』

  朝鮮王朝において、玉座や重要な儀禮で國王の背後に置かれた『五峰山日月図屏風』(図18)は、その図像が象徴化され、御後絵に描かれた「海日月瑞雲」の冲立と大変良く似ている。この図像は、青海波を重ねた大河の上に五峰がそびえ、左右の手前には、五峰から延びたような岸があり、岸には鬆の巨木が描かれている。また、左右の二峰から小さな瀧が流れ、手前の大河に合流し、五峰の上には日月が輝いている。日月の配置は、御後絵と同様に、右に月、左に太陽が描かれている。畫題は、國王の権威と國土の永続性を示すものとなっているが、図像の意味については、幾つもの説がある。特に五峰については、五行説に基づいた五嶽思想(東嶽=金剛山、南岳=智異山、西岳=妙香山、北岳=白頭山、中岳=三角)による地界の仙境を示すという説や、儒教で権力者を示す図像、九章の一つ「五嶽」の図形を規範としているという説がある。幾つかの説がある中で、日月や五つの山、鬆、川など、図像の一つ一つのモチーフは「天保九如」の成句を仿彿とさせる。『五峰山日月図屏風』は玉座の背後におかれたことから、儒教が國家運営の根干であった朝鮮王朝において、當然『詩経』の「天保九如」が意識されたはずである。

  『五峰山日月図屏風』は搆成する図像や國王の背後に置かれていることなど、御後絵の「海日月瑞雲」の冲立と共通する點が多い。そのため、両者の図像の成立においてなんらかの影響関係があったと推察されるが、その際に、考慮すべき點がある。すなわち『五峰山日月図屏風』の成立は16世紀末から17世紀初頭との指摘がある。対して、「明代の國王の御後絵」図像の成立は、円覚寺内の宗廟が建立される1494年(弘二7、尚真18)から明の冊封をうけた最後の國王尚豊が死去した1641年(崇禎18、尚豊20)の間だと推察される。「海日月瑞雲」の冲立の図像の成立は、『五峰山日月図屏風』の図像が成立する以前か、もしくは、琉球と朝鮮の交流が次第に下火になっていく時期と重なる。以上のことから、「海日月瑞雲」の冲立の図像への直接的な影響を指摘するのは難しいが、『五峰山日月図屏』は、抽象化された日月の図像や波などの図像から、御後絵の「海日月瑞雲冲立」と共通する特徴をもっており、何らかの影響関係があったと推察される。

  3-3.琉球における「海日月瑞雲」の冲立

  中國や朝鮮王朝の影響から、御後絵の國王の背後に描かれた冲立が、國王イメージを表出するものとして意識されたのは確実であると思われる。しかし、『五峰山日月図屏風』や「旭日東昇」と、「海日月瑞雲」の冲立を比較した場合、日月や波などのモチーフは似ているが、図像の搆成は異なっている。以上のことから、「海日月瑞雲」の冲立の図像の意味を読み解いていくためには、琉球の世界観へ視點をうつし、考察を行う必要がある。

  鎌倉が撮影した御後絵は、円覚寺に御照堂にあった原本である可能性が極めて高い。後述するように円覚寺、御照堂にあった御後絵の図像は、「御照堂御拝」の儀禮をつうじて、「朝拝御規式」のイメージに接続していく。冲立は儀禮の場面を抽象化した図像として御後絵に描かれていたと考えられる。

  1731年に成立した『琉球國舊記』には、過去に、國王が唐玻豊の前身である撞御格子に國王が現れるとき、おもろを唱える「於毛呂三比也志の禮」があったと記されている。殘念ながら、いつまで「於毛呂三比也志の禮」が行われたか分かっていないが、琉球獨自の世界観を示した國王の神號がなくなる、尚豊王までは行われていたと考えられる。『琉球國舊記』には「於毛呂三比也志の禮」について、具體的に行われた儀禮の内容や唱えられたおもろについての記録はない。また、宮廷儀禮で唱えられたおもろを中心にまとめた『第廿二みやだいりおもろ御雙紙』にも、「唐玻豊向の御規式」で、唱えられたようなおもろは記録されていない。その中で「しよりゑとの節」の内容は「海日月瑞雲」の図像を仿彿とさせる。

  しよりゑとの節

  803 一 上がるてだ拝みや

  按司襲いす 拝み居れ

  明ける日や 御み顔ど 拝み

  又 上がる月拝みや 

  すなわち、東方海上にあると信じられているティダガ穴から、再生して天空を昇っていく太陽や月を國王が拝み、さらに神女達が再生したばかりの太陽や月から、强い霊力を受けた國王の龍顔を拝むという内容になっている。

  また、『第十ありきゑとのおもろ御さうし』「きこえばせりきよみやりぼしやが節」にはティダガ穴から発生する特别な「綾雲」、「虹雲」についても觸れられている。

  きこえばせりきよみやりぼしやが節

  522一 聞ゑ差笠が

  よけ よう 世 直せ

    世う 直さ

  又 鳴響む差笠よ

  又 今日の明けとまに

  又 今日の明け立ちに

  又 東方に見遣れば

  又 てだが穴に見遣れば

  又 紫の綾雲

  又 紫の虹雲

  又 島中根通り

  又 國中根通り

  ティダガ穴から瑞雲が昇立ち、島、國の豊穣の源が湧き出る大切な場所を貫いて輝いている様子が唱えられている。また、かつて久米島には元旦の日の出前に村を一望する丘に登って、たなびく雲で村の一年の吉凶を占う民俗行事があったという。屏風に描かれた日月を取りまく雲は、「きこえばせりきよみやりぼしやが節」に歌われたようなティダガ穴から昇立っている瑞雲であると考えられる。

  こうしたおもろが「唐玻豊向の御規式」で唱えられたかは、検討を要する。しかし、「海日月瑞雲」の冲立の文様は、『詩経』などの世界観よりも、『おもろそうし』の、日々生まれ変わる太陽や月が瑞雲をまとい、東方の海上にあるとされるティダガ穴から天空を昇っていく世界観を仿彿とさせる。さらに想像をたくましくするのであれば、日月の文様は、琉球王國で國王を示す太陽と、その対となる宗教的権威である聞得大君を示しているのかもしれない。

  「海日月瑞雲」の冲立は、17世紀以前の固有の世界観による琉球國王のイメージを表現したものだと考えられる。17世紀も後半になると、國家儀禮とともに國王イメージが変化し、『尚貞王御後絵』(図6)では冲立の図像が金箔の瑞雲模様になり畫面全體に広がり、『尚敬王御後絵』(図7)以降では冲立のフレームは消えていく。

  4.香爐の出現と儀禮の変化について

   鎌倉芳太郎が撮影した御後絵の背景には、垂飾や横幕、格子戸、欄間風建具など、玉座を想起させる図像が描かれていることから、御後絵の背景と首裏城の玉座=御差床の比較を行い、どのような場面を描かれたのか考察を進めていく。現在の首裏城は、1709年に炎上し、1712年に再建され1768年に補修されたものをもとに復元されている。そのため、御後絵に描かれた場面と玉座との比較は、同時代の國王である『尚敬王御後絵』(図7)以降の御後絵と行う。

  4-1.御後絵の図像と二つの御差床との比較

  復元された首裏城には1楷の下庫理と2楷の大庫理にそれぞれ御差床(図19)(図20)とよばれる玉座がある。1階の御差床(図19)は40㎝ほど床を高くし、敷物などをしいて、國王はその上に座るようになっている。正面の額木に垂飾がつき、その布には「金龍五色之雲」が刺繍され、朱色のガラス玉が垂れている。御差床の背面は四點の引違い障子がたてられ、中に設けられた國王専用の階段で2階より出御できる仕組となっている。

  2階の御差床(図20)は寺院でいう須彌壇の形式に近い。床より60㎝餘り上った壇の側面は、日本建築の禪宗様式をとり、中央2本の柱には昇龍が彩色され、須彌壇の羽月板には葡萄と栗鼠の文様が雕刻され、天井近くの垂木の両面には「金竜五色之雲」が雕刻されている。壇の周囲は擬寶珠をもつ高欄がめぐらされているが、中央は一対の龍柱となっている。背面にはやや奥行の深い床の間が付き、ここでは、香爐を中心に龍蝋燭·金花·雪鬆が左右対稱に置かれ、壁には孔子像が懸けられていたとある。現在、大庫理の御差床には鎌倉芳太郎が撮影した御後絵をもとに製作された朱塗りの沈金の椅子が設置されている。朱塗りの沈金の椅子は、復元のもととなった『干隆三拾三年戊子 百浦添御殿御普請付御絵図並御木材寸法記』「大庫理御差床真正面之図」(図21)には記載はなく、1768(干隆33)に御差床に設置されていたかを確認することは難しいものとなっている。

  首裏城に設置された二つの御差床について、図像的な特徴を中心に確認を行った。1階の御差床は、椅子を用いずに、國王が敷物をしいて座るために、天井が低く、空間の印象が御後絵とは異なっていた。2楷の御差床は、天井が高く空間が御後絵と似ている印象を受ける。また、柱や垂木の模様も「金竜五色之雲」など、空間を飾る模様の意匠がかなり共通している。しかし、大きな疑問として、2階の御差床で最も象徴的な造形物であるはずの1対の龍柱が、いずれの御後絵には描かれていない。さらに、御差床は壇となっているが、御後絵には壇と思われる描寫がなく、その床は磚となっている。絵畫表現とはいえ、2階の御差床の最も特徴的であるモチーフが御後絵には描かれていない。以上のことから、御後絵の背景は、首裏城にある2つの御差床ではなく、别の場所を表現した可能性が高い。

  では、どのような場所や場面を想定して御後絵が描かれたか、次ぎに、御後絵が拝観された円覚寺の御照堂と御照堂で行われた「御照堂御拝」から考察を深めていきたい。

  4-2.道具の図像と儀禮の関係

  繰り返すが、鎌倉が撮影した御後絵は、円覚寺の御照堂にあった原本である可能性が極めて高い。御照堂にあった御後絵は、「御照堂御拝」の儀禮をつうじて、「朝拝御規式」の場面に接続していく。

  1721年(康煕52)に編纂された『琉球國由來記』には、歴代國王の位牌と御後絵が祀られていた御照堂での禮拝、「御照堂御拝」が記録されている。「御照堂御拝」は元旦、一月十五日、冬至の朝拝などの大朝と連動し、國王の命を受けた三司官、一名が派遣されて行われた。この三つの儀式は元旦の朝拝儀式を基本としていた*。元旦の朝拝儀式は幾つもの儀禮によって搆成されているが、その中で重要と考えられるのが「朝之御拝」、「唐玻豊向の御規式」であった。

  ①「朝之御拝」

  「朝之御拝」は元來、「歳徳の明方」つまり、その年の吉報を禮拝するという、日本の陰陽道や中國の道教の影響を受けたとされる儀禮であった。しかし、1719年(康煕58 尚敬4)に中國皇帝がいる北の方角に対して、國王以下家臣達が拝禮と焼香を行うという儀禮に変更される。

  こうした、儀禮の変化に影響をうけ、『尚敬王御後絵』(図7)から『尚育王御後絵』(図10)には、國王の手前に鼎型の3本足の香爐があらわれる。しかも、香爐の足の1本は國王を向いて描かれている。琉球において香爐が描かれている絵畫作品は極めて少ないが、『尚灝王御後絵』、『尚育王御後絵』と同時期の19世紀の作と考えられる『孔子及び四聖配像』(図21)には鼎型の3本足の香爐が描かれている。『孔子及び四聖配像』(図22)に描かれた香爐の足の1本は、御後絵とは異なり、禮拝をする鑑賞者へ向いている。香爐の足の向きは、禮拝を行う人物を示す重要なポイントとなっている。王國末期の「朝之御拝」の道具の配置を示した『図帳 當方』「子之方御飾之図」(図23)には「御香爐之足一本ハ御前表成御飾仕候事」の一文があり、香爐の足の1本が、焼香をする國王に向いていたことが分かる。つまり、『尚敬王御後絵』(図7)から『尚育王御後絵』(図10)の描かれた、香爐は、國王が焼香を行っていることを示している。恐らく、『尚貞王御後絵』(図6)に描かれた4本足の香爐についても、像主である尚貞王が禮拝するために描かれたものだといえるだろう。

  ②「唐玻豊向の御規式」

  元旦の朝拝儀式の中で最も重要なのが「朝之御拝」の次ぎに行われる「唐玻豊向の御規式」であった*。「唐玻豊向の御規式」は、首裏城二階部分にあるテラスのような唐玻豊において皮弁冠·皮弁服を着用した國王が椅子に坐り、御庭にいる三司官が國王に対して焼香を行い、その後、久米村士族が祝文を中國語で読み上げ、諸官人の焼香で儀式を終える。先述の『図帳 當方』には、「唐玻豊向の御規式」の唐玻豊の様子と道具についても「唐玻豊御座構之図」(図24)のとおり記録されている。「唐玻豊御座構之図」(図24)の記載で特筆すべきは、唐玻豊に國王が座る椅子はとなっており、その背後に6曲1只の金屏風が配置されている。冲立か、屏風の違いはあるが、金色の光を背にに座っている國王の姿は、『尚敬王御後絵』(図7)から『尚育王御後絵』(図10)を仿彿とさせる。また、『尚貞王御後絵』(図5)は、椅子の形は明代の國王の御後絵と共通しているが、背景の冲立の模様は、『尚敬王御後絵』(図7)と同じものになっている。

  ③「御照堂御拝」

  「唐玻豊向の御規式」で焼香を終えた三司官の1人が、國王の命を受けて円覚寺へ派遣され、御照堂御拝が行われる。御照堂御拝には、三司官1名の他、紫巾官2名が派遣され、御鎖側番之座敷親雲上から久米村士族、那覇士族より各1名ずつと、10名弱の官員が付き従った。『琉球國由來記』では、御照堂御拝について「祖考之恩徳」を忘れないためとあり、祖先である歴代の國王に対する拝禮が目的であった。御照堂に祀られた御後絵は、歴代國王を具現化した絵畫として位牌の背後に祀られていたものと推察される。このことから「御照堂御拝」で三司官は位牌を含めて御後絵に対しても焼香を行ったということができる。御照堂御拝の焼香では「唐玻豊向の御規式」と同じように、中國語で祭文が読み上げられた。祭文は「唐玻豊向の御規式」のものと比較すると若干簡略化されているが、ほぼ同じものになっている。また、清代期の國王御後絵で手前に置かれた香爐が、「朝之御拝」と同様に國王を向いているということは、御照堂御拝における御後絵の役割を考える上で重要である。すなわち、手前の香爐は「朝之御拝」で北方に焼香する國王を示唆していると考えられる。さらに、金箔で表現された瑞雲模様の背景と國王が腰掛けているは「唐玻豊向の御規式」の様子を想起させる。以上のことから、清代の國王御後絵の設えおよび道具類の図像は、「朝之御拝」と「唐玻豊向の御規式」の特徴的な道具によって「朝拝御規式」の場面を再現していたと考えられる。また、鎌倉芳太郎が撮影した10點の御後絵の地面は灰色の磚が描かれていた。円覚寺跡より磚が発掘されており、円覚寺の建物には磚が敷かれていたことが分かっている。この事から、磚は円覚寺の御照堂を想起させる図像であった可能性が高い。

  結語

  17世紀後半から王府は、羽地朝秀に始まる政治改革によって、琉球固有の信仰と道教などの外來の宗教が混在する祭祀を削減、廃止し、代わって儒教的な規範を積極的に道入することによって、琉球社會の再編を図っていく。こうした、一連の流れの中で、「朝之御拝」は歳徳の明方から北方の中國皇帝を拝禮するという儀禮に変化していく。元來、琉球社會では國王と太陽は密接な関係を持っているが、中國的規範の積極的な道入により、やがて國王を「首裏天がなし」=首裏の天さまという呼稱に象徴される、太陽が輝く天と國王を一體化する観念へ変容·移行していく。「朝之御拝」は中國皇帝への禮拝となっているが、中國皇帝の獨佔的·特権的儀禮として祭天儀禮が存在するという儒教知識を獲得するようになった琉球の官僚達が、琉球における祭天儀禮(天の御拝)を堅持するために琉球的な解釈を加えた結果だと言える。こうした中國的規範の積極的な道入により國家儀禮が変化する時期と琉球固有の世界観を示した「海日月瑞雲」の冲立の図像が御後絵から消失する時期が一致する。

  國家儀禮の変化は、その舞台である首裏城の建造物にも影響を與える。1712年(康煕51、尚益3)に再建された正殿の2階の謁見裝置は、撞御格子から唐玻豊へと改変される。朝服を着た家臣達が御庭で整列した様子を、正殿2楷から國王が謁見する行爲は、第一尚氏末期の1463年(天順7、尚徳3)以前に遡ることができる、重要な儀禮な一つであったと考えられる。明代において、18世紀と同じように「唐玻豊向の御規式」が行われたか不明だが、唐玻豊の前身である、撞御格子で朝拝の儀式を行っていたことは十分にあり得る。また、先述の『琉球國舊記』で、朝拝の儀禮に際して、國王が出御する場所を「玉座」として記しており、琉球王國では、大庫理、下庫理の御差床とともに、2楷の撞御格子を玉座として認識していたことが分かる。明代の國王の御後絵(図1から図5)には、「海日月瑞雲」の冲立、以外にも格子戸や、欄間風建具、道具が國王の背景に描かれ、椅子も大柄なものとなっていた。明代の國王の御後絵の図像は、1709年に炎上する前の首裏城の様子と清代以前の明代の朝拝の儀禮の場面や道具を示す可能性が極めて高い。

  本稿では設えおよび道具類や國王が描かれた玉座について考察を行った。考察により、明代の國王の背景に配された「海日月瑞雲」の冲立に描かれた図像は、東アジア諸國の文様の影響を受けながら、『おもろそうし』に見られるような、琉球固有の世界観にもとづく琉球國王のイメージを表現したものである可能性を指摘した。また、首裏城内に二ヶ所ある玉座=御差床や、朝拝の儀禮の際に唐玻豊に設けられる玉座などの、実在した施設との比較を行い、清代の國王御後絵の図像は、朝拝の儀式のなかでも、「朝之御拝」と「唐玻豊向の御規式」、そして円覚寺御照堂の様子を交叉させながら絵畫化されたものであることを明らかにした。

  王府は、17世紀後半から始まる政治改革により、琉球固有の信仰と道教などの外來の宗教が混在する祭祀を削減、廃止し、代わって儒教や中國的な規範を積極的に道入することで、琉球社會の再編を図っていく。中國的規範の積極的な道入により國家儀禮が変化する時期と琉球固有の世界観を示した「海日月瑞雲」の冲立が御後絵から消失し、香爐が出現する時期が一致する。

  御後絵の設えおよび道具類の図像は、朝拝の儀式のなかの「朝之御拝」と「唐玻豊向の御規式」、「御照堂御拝」の重要な意味をもつ設えや道具類を配置することで、それぞれの儀禮の場面を絵畫的に表現し、重要な國家儀禮にのぞむ國王イメージを示しているといえるだろう。

  【図版出典】

  一部の図版は以下より転載させていただきました。

  図15、野崎誠近『吉祥図案解題』ゆまに書房、2009年。

  図16、図17、劉昕『中國古版畫 人物巻 教化類』湖南美術出版、1998年。

  図18、文善周『韓國女性の粋と美 展図録』ディアモーレミュウジアム、2005年。

  【謝 辭】 

  本稿の執筆にあたり波照間永吉先生(冲縄県立蕓術大學名譽教授)、柳悦州先生(冲縄県立蕓術大學附屬研究所)、小林純子先生(冲縄県立蕓術大學)、森達也先生(冲縄県立蕓術大學)、麻生伸一先生(冲縄県立蕓術大學)、鈴木耕太先生(冲縄県立蕓術大學附屬研究所)はじめ諸先生方、首裏城公園友の會員·事務局の皆さま、上江洲安亨氏(冲縄美ら島財団)、幸喜淳氏(冲縄美ら島財団)、外間政明氏(那覇市歴史博物館)、川島祥子氏(冲縄県立蕓術大學附屬図書蕓術資料館)、古謝茜氏(冲縄県立蕓術大學附屬図書蕓術資料館)など多くの方々のご指道、ご援助を賜りました。末尾ながらここに記し、感謝の意を表します。
最佳瀏覽模式:1024x768或800x600分辨率