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中國評論學術出版社 >> 文章内容

供册封使觀賞的組舞曲目“賣花之緣”考述——以與演戲故事、組舞劇本的内容比較爲中心

  【中文提要】 1719年(康熙58年)尚敬王册封之際,任命玉城朝薫爲踴奉行(官職)。組踴便是玉城朝薫以台詞爲主,融合了歌曲與舞蹈結合而成的一種歌舞劇形式。此後,爲款待中國前來出席國王繼位大典的册封使,陸續創作了很多組踴作品。由於首裏王府爲册封使準備的組踴及琉球舞踴節目的台詞以及歌詞全是琉球語,册封使很難理解,爲了方便册封使在觀看組踴與琉球舞踴之際便於理解,王府將琉球舞踴的歌詞及組踴的内容用中文做了翻譯,製作了一本名爲《演戲故事》的解説書。如今《演戲故事》成爲瞭解首裏王府在冠船藝能上演之時,瞭解當時王府是如何對册封使進行介紹説明的重要史料。

  本文探討的内容是1808年(嘉慶13年)上演的組踴《賣花之緣》(劇目標題爲《夫婦約别得財再合》)。通過與組踴劇本的詞章比較,從以下三點進行探討。

  第一,討論《賣花之緣》裏登場的人物是否在琉球王國時代裏真實存在的人物?文章將從周邊史料進行驗证,另外作爲故事的展開,文章將討論登場人物是如何通過用組踴劇本的詞章以及演戲故事的翻譯表現出來的。第二,對作爲《賣花之緣》舞台的“大宜味(村名)間切”,文章將從近代琉球周邊史料出發,探討選擇這個場所作爲背景的原因。第三,通過演戲故事與組踴劇本的對比,討論主人公乙樽和鶴鬆,以及與森川之子相關的心理描寫。

  演戲故事中的組踴劇目《賣花之緣》,取材於近代,真實地描述了當時無法繼續在首裏、那霸生活的下級士族居取人(落魄士族階級到農村從事農業謀生,開墾當地人的荒地或者受當地人雇傭開墾荒地,而獲得一個居所)的生活,通過上述三方面探討,可以瞭解居取人當時的真實生活狀况。另外《賣花之緣》也是琉球王國社會的真實寫照。森川之子一家由於經濟困難而一時分離,乙樽、鶴鬆爲了丈夫、父親不懼山道遠阻,只爲家族團聚重逢。

  我們從中能發現,在册封使面前、在冠船藝能這表演這出劇目是有目的。劇目通過鶴鬆的“孝”以及作爲婦女乙樽的“貞婦”,巧妙地表現了“儒家思想”的表象。通過劇目,琉球王府向册封使表達了其作爲附屬國接受了儒家思想這一强烈信號。

  【關鍵詞】組踴;玉城朝薫;冊封使;《賣花之緣》

  【要旨】組踴は、1719(康熙58)年尚敬王冊封の際、踴奉行に任命された玉城朝薫によって創作された台詞を主として歌曲と舞踴を組み合わせて一組にまとめた形式の歌舞劇である。その後、組踴は中國から訪れた國王即位儀禮を取り仕切る冊封使歓待のため數多く創作されている。首裏王府が冊封使に供した組踴の詞章や琉球舞踴の歌詞はすべて琉球語であったことから、冊封使にとっては難解であった。そこで王府は、冊封使に組踴や琉球舞踴を観劇する際に、内容を理解してもらうため、琉球舞踴の歌詞や組踴の内容を漢文訳した解説書として「演戯故事」を作制している。「演戯故事」は、首裏王府が冠船蕓能上演の際に、組踴りが冊封使に対してどのように解説されたのかを知る上で重要な史料である。

  本稿では、1808(嘉慶13)年に、上演されたとされる組踴「花売の縁」(演戯故事表題:「夫婦約别得財再合」)を取り上げる。組踴台本の詞章と比較することで、どのような相違があるのかを、以下の三點から考察する。

  第一に「花売の縁」に登場する人物が王國時代に実在した人物であったのか、周辺史料から検证し、また物語の展開として、どのように登場人物が組踴台本の詞章および演戯故事の漢文訳で表現されたのかを検討する。第二に、「花売の縁」の舞台となっている「大宜味間切」について、近世琉球における周辺史料からその場所を選定した背景を検討する。第三に、主人公である乙樽と鶴鬆、森川の子に関する心理描寫について、演戯故事·組踴台本との比較を通して検討する。

  上記の内容の検討を通して、演戯故事で記された組踴「花売の縁」については、近世琉球で首裏·那覇で住めなくなった下級士族である屋取人を題材としていること、そして當時の社會情勢を実に具體的に描寫させていたことがわかる。「花売の縁」は琉球王國の社會の実態を描寫する一方で、森川の子一家が経済的困難のため一旦一時離别するが、乙樽·鶴鬆が夫·父のために遠い山道を苦とせず、家族の団らんを取り戻す展開となっている。

  そこには、冊封使や冠船蕓能での上演を意識し、鶴鬆の「孝」、そして乙樽の婦女としての「貞婦」といった「儒教」的表象が巧みに盛り込まれており、こうした舞台上の組踴の内容から、王府の琉球における屬國としての儒教受容を强く冊封使に示す意図を窺い知ることができよう。

  【 キーワード】組踴;玉城朝薫;冊封使;「花売の縁」

  はじめに

  本稿においては、演戯故事により漢訳された組踴「花売の縁」と組踴台本の詞章との内容比較を行い、「花売の縁」における演戯故事の漢訳と組踴台本の詞章に見られる内容から琉球王國時代の社會狀況をどのように表象しようとしたのか、そして王府が冠船蕓能で上演する「花売の縁」を通して冊封使に何を伝えようとしたのか、といった問題を研究対象とする。

  冠船蕓能とは、首裏王府が中國から來琉した冊封使を歓待するため創作された蕓能のことである。冠船蕓能の中で、演じられた演目の一つに組踴がある。組踴は1719(康熙58)年尚敬王冊封の際、踴奉行に任命された玉城朝薫により創作された歌舞劇である。内容は台詞を主として歌曲と舞踴を組み合わせて一組にまとめた形式となっている。そうした組踴は國王即位儀禮を取り仕切るために中國から訪れた冊封使を歓待するため數多く創作されている。

  組踴の詞章や琉球舞踴の歌詞はすべて琉球語(主に首裏の士族語)であったことから、冊封使にとっては非常に難解であった。そこで王府は、冊封使に組踴や琉球舞踴の内容を理解させるため漢訳した解説書を作成している。それが演戯故事である。

  現在、本稿において研究対象とした「花売の縁」が所収されている演戯故事は、「演戯故事」1808(那覇市歴史博物館蔵、尚家文書第128號)に「夫婦約别得財再合」と題している。現存している組踴台本については、現在10種の存在を確認できる。

  「花売の縁」については、すでに伊波普猷·真境名安興·矢野輝雄が「花売の縁」と謡曲「蘆刈」との内容比較という手法で研究を行っている。まず伊波は、「花売の縁」における「蘆刈」との詞章などの類似性に着目し、組踴「花売の縁」が謡曲の「翻案物」であると位置づけている。真境名·矢野は「花売の縁」と「蘆刈」との比較から①主人公の妻が名家の乳母となること②夫を探しに行くこと③塩屋田港が謡曲の舞台となる御津の浦に擬せられていることなどの類似點を指摘している。一方、謡曲よりも寫実的であることや森川の子が首裏士族から都落ちをし、屋取人となり花売になる様子から近世琉球の社會問題を題材にしたものであることも指摘している。

  さて、「花売の縁」の作者についてであるが、又吉康和や山裏永吉は「花売の縁」に関する逸話や高宮城家への聞き取り調査などから、高宮城親雲上朝常ではないかと比定している。しかし、又吉·山裏らのそうした比定については、実证的な史料が見つかっておらず、未だ推測の域を出ていない。

  「花売の縁」の組踴台本については、1980年代の冲縄県教育庁文化課による調査報告により、9種の台本の存在が確認されている。また、組踴台本の書志學的研究において、大城學が伊波普猷『校注琉球戯曲集』に所収されている台本と藪の鶯が新聞に連載した1866(同治5)年の冠船蕓能の際の台本とされる内容との比較検討を行なっている。

  台本の詞章分析において大城は、まず伊波普猷『校注琉球戯曲集』に所収されている「花売の縁」の台本と、冠船蕓能の台本をもとに記述したとされる藪の鶯の台本との間には差異が認められる。また、藪の鶯の新聞連載の台本では、尚泰王の冊封の際の台本をもとに記述されたものとされているが「疑義が認められる古老に質して」と記されている點がある。したがって、大城は組踴台本が書寫·編集される過程で、口頭伝承された詞章なども含んでいると考えられ、組踴台本の史料の性格上系統を示すことが困難であるとも論究している。

  以下、本稿では演戯故事と現在確認できる組踴台本との比較を通して、①登場人物(乙樽、鶴鬆、森川の子、猿引、薪木取)の人物表象②「花売の縁」における舞台設定を大宜味間切とした背景③「花売の縁」に見える近世琉球社會の事象を演戯故事·組踴台本及び周縁史料などから読み解き、冠船蕓能で「花売の縁」が上演された意義を検討してみたい。

  1 「花売の縁」における人物表象

  まず、「花売の縁」に登場する森川の子(以下、森川と稱す)の人物描寫について、演戯故事と組踴台本の内容を比較してみたい。

  ①森川の子

  演戯故事では森川を、以下のように描寫している。

  森川子肩挑百花東賣西賣而行路間嘆曰人生在世或盛或衰譬如暑去寒來我家業破蕩如此則妻子死生亦無便可聴単身焦心只怕如狗猫轉死溝壑嗚呼自有生民以來㷀獨未有如我者然如此悲痛亦何有益耶不如聴天繇命聊以度日即徃東西各村巡到

  【森川の子は桃や多くの花を肩にかついで、色々な場所で売り歩いていた。その道すがら嘆いて、「この世の人の盛りや衰えは、暑さがさって寒さがくることのようだ。家の財産をつぶし、妻や子どもの生死を知る便りもない。ただひとり気をもんで、犬猫のように谷間に転がって死ぬことをおそれる。ああ。人として生まれ、私のような孤獨な者はいないだろう。このように痛み悲しんいてもどうしようもない。天命にしたがい、ひたすら日々を過ごすしかない。」と言い、(森川は)多くの村々を巡った。】

  一方で、演戯故事に対応する組踴台本の詞章では、花売として塩屋田港へ向かう森川の様子について以下のように記している。

  是や首裏方の士森川の子。この世人間の盛衰や夏と冬ごゝろいき替り/\、散々にやつれ果て、此のなりよやれば、あはれ妻子の生死のことも便り無ぬあれば、音信も聞かぬ。淺間しや一人思焦がれとて、道柴の露と共に消え果てゝ、犬猫のゑじきなゆらと思ば。あゝ、この天の下に我如る至極因果の者や居らぬ。いや泣きやんてやりきやしゆが憂き苦れしやしゆすも天の御定のこの生れと思て、思切やり急ぎ日々の營みに、けふや東方の村々に行きゆん。

  【これは首裏方の士。森川の子この世人間の盛衰というのは、夏と冬の心いき替り/\、散々にやつれ果ててこの姿になり、哀れ妻子の生死の便りもなければ音沙汰もない。淺ましや一人思い焦がれて道柴の露と共に消え果て犬猫の餌食になると思えば、ああこの天の下に私のように至極因果の者はいない。いや泣いていてもどうしようもない。憂き苦しさはあるが、天の御定めのこの生まれと思い、急ぎ日々の営みのために今日は東方の村々へ行く】

  歌 せんするぶし

  東西々々聞きめしやうれまこと名にあふ鹽屋港、入船出船絶え間無く、浦々諸船の舟子共苫を敷き寢に梶まくら、哀れに謡ふ節々を聞くにつけても袖ぬるゝ。山の端出づる月影に、海士のつり舟漕ぎつれて、冲の方にぞ出ぢて行く。我も世渡る營みに梅や櫻に杜若山吹長春風車花の色々籠に入れ、村々裏々ゆきめぐり、これ買やり賜れ、踴て御目かけら。

  【東西々々聞いてください。実に名高い塩屋港、入船出船絶え間なく、浦々諸船の舟子共。苫を敷き寢に楫枕。哀れに謡う節々を聞くにつけても袖濡れる。山の端いづる月影に、海士のつり舟漕ぎつれ冲へ出ていく。我も世渡る営みに、梅や桜に杜若、山吹、長春、風車。花の色々籠に入れ村々裏々行き巡る。これを買ってくれ。踴って御目にかけよう。】

  演戯故事では、「人生在世或盛或衰譬如暑去寒來」と記されており、森川が人の盛衰を寒さや暑さが変わっていくようであると述べている。一方で、組踴台本の演出で森川の登場は、下手奥から花かごを擔いで上手前に向かって歩んで、舞台中で右回りを行い、正面に向かって基本立ちしている。その後、組踴台本に記されている森川の詞章は、「この世人間の盛衰や夏と冬ごゝろいき替り/\」とされており、演戯故事の漢訳と一致している。こうした演戯故事の漢文と組踴台本の詞章の雙方から、花売りに身を落とした森川の妻子との音信が不通である狀況、首裏へ戻ることを諦め、ただ天命に身を任せて日々の暮らしをする様子を窺い知ることができる。

  その内容からして、演戯故事の漢訳が組踴台本の詞章に則して行われていることがわかる。演戯故事の内容については、漢訳が台本に基づきなされたものが少なくないが、漢訳が全て台本の詞章と一致するとは限らない。琉球語を理解する琉球側において、舞台の音楽効果や立體的なビジュアルな表現を搆築することを目指す台本とは異なり、演戯故事は劇の筋を伝える漢文の解説書であることから、展開する筋の文章描寫に徹している。まず、そうした両者の性質に立脚した視點が比較分析の際には重要となることを指摘しておきたい。組踴台本では、森川が名乗りを行う際「首裏方の士」と述べているため、士族身分であることが分かる。一方で、森川の容姿は、「ほふらく頭巾、杉笠かつぎ、胡染木綿衣裳、脚はん、黒足袋、花加籠一荷に梅、櫻、杜若、山吹、長春、風車、色々の花入付かたげ出る」となっており、花売であることがわかる。演戯故事ではあらすじの説明を重視し、容姿については舞台上の出で立ちで一見してビジュアルに視覚で理解できることから、具體的な容姿にかかる説明は行われてない。こうした點も演戯故事と台本の内容の大きな違いの一つである。

  さて、この花売りの出で立ちは「振売」と呼ばれるものである。「振売」をしている「花売」は、管見の限り琉球の事例では見られない。しかし、近世日本の身分制について吉田伸之は、店舗を構えずに籠を下げて歩いている商人である「振売」を都市部の下層民として位置づけている。この點は、日本の蕓能の影響を考える上で重要である。「首裏方の士」から「振売」として花を提げて売る姿は、「下層民の商人」にまで落ちぶれた森川の様子が日本風に表象されている。一方、士族身分でありながら「下層民」に身を落としていく近世琉球における「屋取人」という士族人口の増加に伴う下級士族の社會問題を組踴で取り上げた點にも注目したい。

  近世琉球の屋取について、田裏友哲は1690(康煕29)年の「李姓家譜」によって大裏間切稲嶺村から具志川間切の豊原へと移住し、屋取りしたのが屋取人の管見しうる最も古い記述であるとしている。その後、蔡温が摂政として王國の中樞で行っていた時期には、士族の増加など人口問題が浮き雕りとなり、「球陽」では1725(雍正3)年に王府が、本來百姓身分が行っていた絵師や庖丁人、その他船頭や作事などの業務を士族が行うことを許可する記事が見られる。

  雍正十(1732)年に著された『御教條』には、以下の記述がみられる。

  御當國役座之儀數少有之、諸士之儀者年増致繁栄候付而其内御奉公不仕方茂餘多可罷在候、然共士與申者、其筋目百姓より抜群相替候右之決を以、常之忠義之心題目存國土風俗之爲何篇氣を付神妙相勤候ハヽ、是亦御奉公之筋不軽勤候、何れ茂存知之通風俗悪敷罷成候ハヽ、各子孫茂悪敷相成候儀案中之事候、能々此了簡を以士之節儀大切存萬端正道可致執行事

  琉球の役座は數少なく、諸士については、年々増加しており、士(族)の中には、國へ御奉公できない人々も少なからずいる。士(族)は、琉球社會において、その筋目(身分)は百姓より上位に位置付けられている。常に「忠義の心」を題目として、國土風俗のために何遍も気をつけて特に働けば、これまた御奉公の筋での勤めは軽くないとし、風俗が悪くなれば、子孫までも必ず悪くなることから、士(族)の禮節を保ち、萬端正道をおこなうべきであると諭している。

  ここでは琉球での士族に與えられる役職が減っている一方で、士族が年々増加しており、無役の士族が増えていることを示し、士族として國に対する忠義の心を持ち、風俗を良くするために勤めることを勧めている。ここでいう「士族として國に対する忠義の心を持ち、風俗を良くする」ことは儒教的精神の高揚を促しているとみていい。また、演戯故事の演目の解説の中では、こうした琉球社會における徹底した儒教倫理の浸透を强調するものが多い。しかし、「花売の縁」では森川が何とか首裏へ戻るため、「花売」をして働く姿も前述した士族としての心持ちを表す人物表象の一側面をになっていたと考えられる。

  ②乙樽·鶴鬆

  次に、森川の子の妻乙樽と子鶴鬆についてであるが、演戯故事では以下のように記されている。

  乙樽従爲乳母多蒙主人殊恵豊衣饒食並無飢寒之憂乃欲依前約尋見森川奈不知所在荏苒之間早過十有二年鶴鬆年已十二歳矣

  【乳母となった乙樽は、主人から多くの衣食の恵みを受け、饑えや凍える心配も無く、(夫との)以前の約束通り、森川を尋ね探したが、いかんせん所在がわからず、そうこうしている内に十二年がすぎ、鶴鬆の年齢も十二歳となった。】

  乙樽は裕福な士族の家の「乳母」となっており、「主人」の恵みを受けて饑えや寒さを心配すること無く衣食も充足し息子の鶴鬆と暮らしている。ここで乙樽がなった「乳母」とは、琉球社會で見られた親戚や近所の村の若い女性を選んで、産後の女性が療養中や乳の出が悪いときに母親代わりに赤子に乳を與える人のことである。「乳母」は奉公先の士族の子守り役あるいは教育係としての「乳母」の存在は大きく、乳母と子との関係は、ムヤーナーあるいはムイングヮといった関係で成人後も続き、絆の强い関係にあったとされている。一方、近世日本の武家における乳母について吉田ゆり子は、子どもが離乳するまでの雇用関係であり、それ以降関わりがなかったのではないかと指摘している。そのため、琉球での「乳母」は日本とは異なり、身分を問わず乳母と子どもとの関係が絆の様に結びついており、强固な関係であったことが伺える。ちなみに、琉球での「乳母」の習俗は、組踴では「花売の縁」以外に、「大城崩」や「大川敵討」などにも登場している。組踴以外でも近代冲縄芝居の「泊阿嘉」、「薬師堂」で乳母(チーアン)が登場し、嫁入り前の娘に隨行する場面などからもうかがえる。

  首裏へ戻り家族とともに暮らすことを諦めかけていた森川との暮らしぶりの相違は、舞台上で乙樽と鶴鬆の裝束からもうかがえる。乙樽は「垂髪、紫長巾、作花並金銀水引、のし紙差、女笠かつぎ、琉縫薄衣裳、緋さや足袋」という士族の女性の出で立ちとなっている。鶴鬆もまた「髪半向頭巾、作花、金銀水引差、板〆縮緬、振袖衣裳、脚胖、緋さや足袋」とあり、士族の若衆の裝束である。前述した森川の裝束とは実に対照的である。

  ③猿引

  「花売の縁」では、久志間切辺野古村の猿引が登場する。演戯故事では以下の通り漢訳されている。

  時有牽猿行過者原是久志郡邉野古村人也

  【そこに猿引が通りかかった。もともとは久志間切辺野古村の人である。】

  因大宜味郡官府欲見猿戯故牽徃彼郡

  【大宜味間切番所で、猿の曲蕓をみたいというので、(猿を)ひいてこの間切へ來ていた。】

  乙樽曰既他縣人則吾應問這郡人只見汝猿必定有戯藝求俾做戯以慰我心

  【乙樽は「他間切の人であれば、私はこの間切の人に尋ねてみます。あなたの猿を見ていると必ず何か曲蕓ができるはずでしょう。猿に演技をさせ、私の心を慰めていただけませんか。」と言った。】

  牽猿者亦俾作一個武戯既而辭曰今宜使其盡戯藝但不可不到大宜味駅如両三日□(留ヵ)駕於此則再牽來俾盡戯藝

  【猿引はまた一つ猿の武蕓をし終えると、「今日はいろいろと曲蕓をお見せしたいのですが、大宜味番所へいかなくてはなりません。もし、二、三日ここに滯留するのであれば、ふたたび猿を引き連れて、曲蕓をお見せいたしましょう。」と言った。】

  このように、演戯故事では「牽猿者」(猿引)が登場し、乙樽と鶴鬆に猿の蕓を所望され、旅の慰めとして猿の蕓を披露する内容が記されている。この内容は組踴台本でも同様の詞章があり、台本に則して漢訳がなされている。近世琉球において猿引は、管見の限り見られない。「猿引」に関しては、近世日本では庶民の娯楽として猿引が猿に蕓を仕込んで行わせる見せ物があったことが分かっている。

  近世日本の猿引について織田紘二は、中世では厩猿信仰であり、厩の火災防止として猿引を呼び、猿の舞を行わせる習俗から始まり、その後、近世となって庶民や士族の娯楽として猿引が定着していったことを指摘している。

  また、中國の研究者である史静は、清末に猿まわしが庶民の娯楽として北京で行われていたことを指摘している。猿まわしは中國においても娯楽として行われていることから、冊封使は観劇した際に、中國風な娯楽が琉球社會でも定着していると思ったであろう。

  組踴における猿引は、乙樽と鶴鬆の長旅の慰めとして猿の蕓をみせる。父親を探しに出た妻乙樽と子鶴鬆らに猿の蕓をみせる場面は、本筋の内容からして必ずしも設定しなければならない内容ではなかったはずである。組踴台本では、猿の踴りの歌詞について記されているが、演戯故事では、そこは漢訳されていない。猿は人間が猿に扮したものであり「張抜猿面併手袋身體尾まで胡染木綿調」と、人が面を被り、猿の體を模した裝束をまとい、組踴の娯楽性をさらに高めるシーンとしてセットされている。

  組踴「花売の縁」は物語を展開する中で、本筋とは関係なく、こうした娯楽性にも様々な工夫がなされている點も特徴として指摘することができよう。組踴自體、4·5ヶ月にも及ぶ長い冊封使の滯在中に挙行されるアトラクションであった。組踴はあらすじのみを辿るのではなく、アトラクションとしての娯楽性を高めるといった本筋とは関係のないそうした搆成も含まれている點にも留意しなければならないだろう。しかし、琉球において猿引がいたという事実は管見の限り確認できない。

  近世日本や清代においては猿引が被差别民として扱われていたという指摘もある。琉球にも類似している身分として「京太郎」と呼ばれる首裏の安仁屋村を拠點とし、各地を回る門付け蕓人がいた。組踴の世界では「萬歳敵討」で仇討ちのため、主人公の謝名の子と慶雲兄弟は「京太郎」に身をやつし敵方へ向かう場面がある。しかし、「花売の縁」で登場する猿引は、史料がないため不明であるがおそらく「京太郎」と同じ身分の位置づけであったのではないかと推測される。

  ④「花売の縁」での薪木取と塩屋田港の検討-周辺史料の検討から-

  「花売の縁」では薪木取が登場する。さて、その薪木取についてであるが、干隆十六(1751)年に編纂された「山奉行所公事帳」において薪木取が薪を取って商売することに関して以下のような注意を促している。

  第七項

  一割薪木商売爲仕候ては、百姓共致勘違直木勝に伐取、山工正法之支罷成候に付

  被召留、丸薪木にて商売可被仰付事

  條文で諸間切に対し、薪木を売って商売をする百姓達の中には、「直木」といった王府が造船用などで用いる材木を伐採しようとする者がいる。そのため、王府は「直木」の勝手な伐採は山工正法(植栽における管理法)に支障をきたすことからやめさせ、「丸薪木」と呼ばれる遷曲した薪を商品として売ることにせよ、と命じている。

  首裏王府は大宜味間切に対し、このような木の伐採を禁止し取り締まっている。また大宜味間切の御法度の木を伐採し、売買した者に対して法で定められた科を行うよう指示している。王府は指定する御法度の木が、回船によって密かに持ち込まれることを防ぐため、大宜味間切から首裏·那覇へ船で向かう場合には、「奉行」に対し船改め(船の荷物検査)を行うことも指示し、そうした通知が首裏の御物奉行から大宜味間切の検者へ下達されている。さらに王府は抜売(密売行爲)の手口を想定し、大宜味間切の関係部署へ通達し证文をとるといった方策を講じ、大宜味間切から他の港へ寄る際は、その港の在番へ宛書を送り、その送り狀を以て検査を行うことを命じている。

  こうした近世琉球の林業にかかる規制について、仲間勇栄は、「山奉行所公事帳」の分析から、王府が「御法度の諸木」を多く定めていたことを指摘している。木が燃料のみならず、染料や薬、蠟燭の原料など用途が多く、林業が琉球にとって重要な産業であったことがわかる。

  近世琉球において、大宜味間切を含む本島北部地域は、山林が多く林業が発達した地域で、時代は異なるが大正2(1913)年の新聞記事でも大宜味は、山林が多く薪取りが商売として成り立っていることが報じられている。

  さて、薪木取が乙樽と鶴鬆に訪ねていくことを勧めた「塩屋田港」についてであるが、演戯故事には以下のように記されている。

  樵翁見之就認得森川族戚乃指教曰彼村之前有塩屋田港舟楫會集商民如雲或買賣或戯藝甚是閙熱一到彼處則應聴得森川踪跡

  【薪木取はこれを見て、(乙樽·鶴鬆は)森川の親族であることがわかった。そこで、指をさし、「あの村の前に、塩屋田港という所があります。船が集まり、商人や人々も多く集まり、売買をしたり、蕓を観たり、とてもにぎやかな所です。一度そこに行けば、森川の消息を尋ね聴くことができることでしょう。」と言った。】

  この場面、組踴台本の詞章においては以下のように記されている。

  おの御二人や森川の子御由緒方の御様子、あの港前なちをる村や鹽屋田港んで雲やべいん。諸回船所の事やれば、那覇泊島々浦々の商賣人大粧至極色々の物賣たり買ふたり、又諸方の旅人のだん/\の藝能、中々にぎやかな所だやべる。急ぎあの村なかへ御越しめしやうち、御たんねめしやうれば森川の御様子委細おんにゆかる筈だやべる。

  【御二人は森川の子御由緒方の御様子。あの港前である村は塩屋田港と申します。諸々の回船が集まり、那覇泊島々浦々の商売人たちもたいそう至極色々な物売ったり買ったりしております。又、諸方の旅人が色々な藝能を行い、中々賑やかな所であります。急ぎあの村の中へ御越しください。尋ねていけば森川の様子をより細かく、お知りになるはずであります。】

  演戯故事·組踴台本雙方で、「塩屋田港」が賑やかで多くの船や人が行き交う場所であることを記している。実際、近世琉球の大宜味間切塩屋村と田港村はどのような狀況であったのだろうか。

  近世において大宜味間切では、「山原船」と呼ばれる貨物運送船が物資の運搬に重要な役割を擔っていた。1754(干隆19)年の「今帰仁杣山方式」では山原の各間切や津口において津口番を設けており、大宜味間切も例外ではなく、田港村では間切検者が擔當することが記されている。上述したように、こうした王府の港灣対策は、大宜味間切を含めた本島北部地域に山林が多く、王府が「御法度の木」として定める木が、那覇へ行く船で密輸する事例もあるため、その防止策の一環としてなされていた。

  大宜味間切は実際に森林に恵まれ、王府にとって木材を必要とする際の供給地として重要であり、演戯故事や組踴台本に登場する薪木取のような山に入って落ちている枝などを拾い、日常でもちいる燃料として売る百姓も確かに存在していた。

  ⑤薪木取の舞台上の役割

  薪木取が登場する場面で、演戯故事では薪木取を「樵翁」と漢訳している。乙樽が薪木取に森川の子のことを尋ねた際に、薪木取は以下のように答えている。

  樵翁答曰夫森川子者迄於去年寓此江濵其爲人也忠厚老實盡力營業少不懈怠争奈財運不好耕種遇旱煮咸遭霖無業可爲時流涙曰我原保家宅衣食無憂但縁不幸接踵不能居住本籍遂離妻子遠居他郷常圖活命不遑尊見妻子已歴十餘年並不知妻子之死生嗚呼世上有如我愁苦者耶

  我聴之下不勝心酸然見彼行雖至如彼困窮之地操守士莭或栽錦花賞之或題詩賦吟之以解愁苦但至頃日不知走去何處也

  【薪木取は、答えて「その森川の子は、昨年までこの海辺に仮住まいをしていた。その人となりは情に厚くまじめで、仕事に精を出し、少しも怠るようなことはなかった。しかし、いかんせん財運が良くなく、畑を耕し植えれば、日照りに遭い、塩作りをすれば、長雨に遭い、仕事に恵まれることはなかった。」(森川の子は)時に涙を流し、「私はもともと家宅もあり、着るものや食べるものにも何不自由することがなかった。しかし、不幸が絶え間なく続き、首裏で暮らすことができず、妻子とも别れ、遠い異郷の地でなんとか命を長らえてきた。妻子に會うこともなく、すでに十餘年が過ぎてしまい、妻子の生死も知らない。ああこの世の中で私のように憂い苦しんでいるものがいるのだろうか。」と言っていた。私はこれを聞き、心中强く悲哀を感じていたが、彼の振るまいは、困窮の地にいたるといえども、士族としての節度を守り、(時に)錦の花を植えて愛でたり、詩を作って吟じたりして、その憂い苦しみを解きほぐしていた。しかし、このごろは、どこへ行ったのかしらない。」と言った。】

  演戯故事の漢訳の中で、薪木取は森川が近くに住んでいたことを述べ、また、森川の人となりは、誠実で仕事に真摯に向き合う人物であったが、運がなく耕作をすれば日照りに、塩を炊けば長雨に遭うといった悲慘な情況を伝えている。森川は薪木取に自分の力で元の場所(首裏)へ戻りたいが、暮らし向きが好転せず、妻子に會いたくても會えない、この世の中に自分のような不幸な者はいないと嘆いている。このような狀況下でも、演戯故事は森川が花を愛で、詩歌を詠むといった士族の節度を守っていることを記している。こうした内容は組踴台本の詞章と一致している。

  こうした森川の子と薪木取とのやり取りの中で、組踴台本には記され、演戯故事では記されていないものがある。薪木取が森川の子の心境を詠んだ歌の詞章部分である。その詞章は以下の通りである。

  或時、濱宿りにわび住ひの題しち、歌にあばら屋に月や洩る、雨や降らねども我袖濡らち。又 磯ばたの者やれば、朝夕さゞ浪の音ど聞きゆるまた二三年先八月十五夜に、よらて月見しゆるうち、とかく故郷の妻子の事が思出しやべたら、歌につれなさや思ひ身に餘て居れば、さやか照る月も涙に曇て。又ながめればつめて思事や増しゆり、とてもかき曇れ夜半のお月。

  【ある時、濱宿りの詫び住まいと題して歌った。あばら屋に月の光が漏れる。雨は降らないが、我が袖を濡らす。また、磯端の者であれば、朝夕さざ波の音が聞こえる。また二、三年前の八月十五夜に、月見している内にとかく故郷の妻子の事を思いだし、歌うつれない思いは身に餘り、さやか照る月も涙に曇る。また、眺めればつのる思いは増すばかりで、かき曇る夜半の月。】

  この時に薪木取が歌った琉歌は4首である。1首目では、「あばら屋に月や洩る、雨や降らねども我袖濡らち。」と、森川の子が住んでいるあばら屋に月の光が漏れ、外は雨が降っていないが、私の服の袖は涙で濡れているとし、森川の子の貧しさと心の侘びしさを表している。2首目でも「磯ばたの者やれば、朝夕さゞ浪の音ど聞きゆる」と、ここでも森川の子が首裏から遠き離れた浜辺で、家族と離れさびしく一人で、朝夕さざ波の音を聞いている情景を歌っている。3首目では「つれなさや思ひ身に餘て居れば、さやか照る月も涙に曇て。」と、森川の妻子対する思いが募り、自らの苦しい思いで身が張り裂けそうになり、照る月も涙でかすんで見えないといい、続けて4首目でも「ながめればつめて思事や増しゆり、とてもかき曇れ夜半のお月。」と、月を愛でれば、常に思いだすのは妻子のことばかりで、あふれ出る涙で月がさらに曇るといった、寂寥感漂う内容となっている。

  こうした薪木取が森川のことを蕩々と思い詠う琉歌の部分は、演戯故事では漢訳されていない。しかし、この部分、最後に再會する場面につぐ、見せ場といっていい。ここでは、森川が妻子と遠く離れていても、士族としての気風を保ち妻子を思いながら、日々の暮らしをしている人物として表象されている。この場の情況は琉歌でしか表現されていないことから、冊封使は歌の内容については理解できていない。演戯故事では、このように台本の内容を訳してない部分も少なからず存在する。

  この部分については、森川の家族に対する思いが込められており、漢訳の必要性があるように見える。しかし、実際漢訳がなされていない。こうした組踴台本にのみ記された内容は、組踴の聴きどころとも考えられ、薪木取が森川を思い、寂寥感漂う歌を詠む部分に演者としての技量が求められたともいえよう。

  その後薪木取は、森川の行方を知らないと乙樽に述べた後に、乙樽と鶴鬆の変化に気づき、塩屋田港という大宜味間切でも船が行き交い色々な人がいるため、そこにいるのではないかと述べて去っていく。

  この薪木取は組踴において「間の者」と呼ばれ、百姓身分でありながらも、組踴の展開において重要な手がかりを主人公へ教える役割が與えられている。薪木取の言葉に道かれて、物語はクライマックスへと繋がって行く。

  2 演戯故事に記された「花売の縁」における大宜味間切―津波村に関する検討から―

  「花売の縁」における森川の子と妻子の再會の場所に「大宜味間切」が設定されている。本節では以下、この「大宜味間切」について検討してみたい。

  ①森川の子の住む大宜味間切津波村

  大宜味間切津波村にいた森川の子の様子について、演戯故事では以下のように記している。

  一日傳聞森川在大宜味郡津覇村煮咸以營日食

  【ある日、人づてに、森川が大宜味間切津覇村で塩作りをして日々暮らしていると聞いた。】

  この部分、組踴台本の乙樽の詞章においては、以下の通り記されている。

  我身や御檀那の御恤に逢て、朝夕の暮し方不足無いぬあれば、兼ねて約束のごと尋ねらんすれば、行衞わない知らぬ。此頃に聞けば、大宜味津波をとて鹽たきやり日々の暮ししゆんてやり語れべのあれば、知らしべのあれば、なし子つれ立ちやり、とまいて行きゆん。

  【私は御旦那の御恵みに會って朝夕の暮しぶりも不足がない。(暮らしぶりが良くなれば再び家族一緒に暮らすという)約束をしたが、(夫を)尋ねようと思っても行方がわからない。この頃、聞くところによると、(森川は)大宜味間切津波村で塩を炊いて日々の暮しをしているとのことである。我が子と一緒に尋ねて行こう。】

  演戯故事·組踴台本雙方ともに、森川の子が大宜味間切津波村で制塩していることを記している。ここで、近世琉球における大宜味間切での制塩の様子を見てみよう。仲地哲夫は近世琉球での制塩について、那覇の潟原で大規模な制塩が行われており、「塩代米」として米での年貢の代替として用いていたことを指摘している。制塩を行っている地域について、1728(雍正6)年の「御財制」に、國頭方の塩の上納に関して以下の記述がある。

  浮得上納

  一塩弐千四百三拾八俵四昇五合一俵に五昇入

  國頭方塩屋拾九敷、小塩屋弐敷上納

  一塩屋一軒ニ而、壱ヶ月之上納五鬥一昇餘、小塩屋四鬥一昇餘相納り候、塩屋一軒年中之焼出、百弐拾三石も有之候得者、弐拾分之一程之上納ニ而可有之候

  この記録には、國頭方における王府への塩の上納量が記されており、國頭で塩が租税として精算されていたことがわかる。では、近世琉球において大宜味間切の百姓らは塩を租税としてどのように納めていたのだろうか。「取納座國頭方定手形」には、以下のように記されている。

  一銭三貫五百三拾弐文、

  納塩五昇八合八勺六才、

  但、閏月有之年は一ヶ月分重、

         大宜味間切津波村百姓

            模 合 塩 浜

  右此節、新竿入上木御高取立定代銭にて、十二月限上納被仰付候間、來年より年々致取納候様、可申渡事。

  この史料は、「御財制」の作成年代とは時代差があるが、道光五(1825)年に取納座から國頭方に対して塩田を検地した上で、大宜味間切津波村における王府への塩の徴収分を決定する内容となっている。

  森川の子が塩炊きをして日々の暮らしを立てようとした大宜味間切津波村は実際に存在し、組踴を創作するにあたり、琉球王國當時の実態を組踴に投影していたことがうかがえる。フィクションによる場所の設定がなされたわけではないことを指摘しておきたい。

  3 森川の子と乙樽·鶴鬆の再會の場に見られる心理的表象

  ①森川の子の妻子との再會

  森川の子は、大宜味間切で妻子と再會するが、その際に自分のあばら屋に隠れてしまう。妻乙樽は、森川の行動に対し、避ける理由を尋ねる。その時の森川の子の心情を演戯故事は以下のように記している。

  森川子答曰汝何出此言哉吾原不擬汝來今蒼卒尋來我身凋殘如此固耻對面相見故暫在此遮羞

  【森川の子は、「お前はなぜこのようなことを言うのか。お前が來ることは想像もしていなかった。今突然尋ねてきて、我が身はこのように低落し、対面し互いに會うことを恥じらっている。ゆえに、ここでしばらく羞じらいを隠している。」と答えた。】

  乙樽は、上述したように、首裏の有力士族の家の乳母として、衣食に困らず、饑えや寒さを凌ぐことができ、不足無く暮らすことができている。乙樽は森川を探しだし、首裏で子供と一緒にくらしたいという思いから、幼い子の鶴鬆を連れ首裏から遠く離れた大宜見間切に至り、やっと夫に會うことができた。しかし、ずっと案じていた妻子との再會が実現したのにも関わらず、森川は不運が続き、花売りに身を落とし、暮らしている自らの姿に恥じ、あばら屋に隠れてしまう。

  この再會の場面を組踴台本の詞章は以下のように記している。

  森川の子

  今の尋ねごと夢やちやうも見だぬ。淺ましや此の身かにある有様になり果てゝ居れば、まこと妻子に面打向てい言葉のならぬ、あはてさまこれに、顔隠ち居ゆる。

  【森川の子

  今、尋ねて來るとは、夢や現でも見ない。淺ましいこの身はこのような有様までなり果てていれば、本當に妻子に面と向かっておられない。慌ててこれまさに顔を隠している。】

  上述したように、演戯故事の漢文訳は原則として組踴台本の詞章に基づいて行われており、この部分も同じような内容が記されている。

  ②鶴鬆の再會の喜びと父·森川の子とのやりとり

  乙樽は続けて父親に逢いたいがために鶴鬆が遠く険しい山道を辿り、母と共に苦しい思いをしながら、やってきたことを告げる。演戯故事ではその時の森川の心情を、「聴汝等所言思汝等所行吾心彌恥吾情彌歓而多感厚意而己」と記し、森川の現狀を恥じらう気持ちと同時に、復雑に再會の喜びが交錯する心境を伝えている。

  さらに演戯故事の中で、鶴鬆は父の森川の子に対し以下の言葉をかけている。

  鶴鬆告禀森川曰未見父親寐不安席食不甘味故不顧死活越嶺過谷尋來這裏幸今無恙相逢就像春夢一般只願早回舊借永修素業

  【鶴鬆は森川に「(私は)まだ父親を見たことがありません。不安で穏やかに寢ることも出來ず、食べ物もおいしさを感じることがありません。必死の思いで山々や谷を越え、ここに至り、いま無事に互いに會えたことは、まるで春の夢のようです。ただひたすら、早く舊籍(首裏)に戻り、末永く(貧しくとも)士族の生業につくことを願うだけです。」と言った。】

  鶴鬆は父がいない生活の中で、「寐不安席食不甘味」と、寢食ままならず、おいしさも感じないといった侘びしさを伝え、一方、必死の思いで山々や谷を越え、ここに至り、無事に出會えたことは、まるで春の夢のようだと述べている。続けて、鶴鬆は森川の子に対して「早く首裏に戻り、末永く(貧しくとも)士族の生業につくことを願うだけです)」と思いを告げているが、ここでいう「生業」とは、首裏の無禄士族がおこなっていた星功を積み上げる王府に対する無給奉公のことを指しているのであろう。赤嶺守は、近世琉球での無禄士族が星功を積み上げて薩摩への上納品あつかう「心付役」になり、「渡清役」として莫大な役得を得るまで40年先までかかるなど王國の無禄士族の厳しい現狀を指摘している。そのため、森川の子が首裏にもどったとしても、扶持役につけるわけはなく、「生業」というのはそうした手作をし、内助の功を頼みにして星功を積み上げることをいっているのである。幸いにも母親が乳母として何とか暮らしていける情況にあった。そうした母親がいるから言える台詞であった點ここでは留意しておきたい。鶴鬆はやっとの思いで會えた喜びを組踴台本の詞章で以下のように伝えている。

  鶴鬆

  やあ父親よ拜みぼしやうらきらしやあまり過ぎらゝぬ、母親と二人命思はまて、知らぬ山國に尋ねやりおりて、今日拜むことや夢がやゝべいら。

  【鶴鬆

  やあ父親よ。お會いしたい気持ちが募り、居ても立ってもおられず、母親と二人で命がけで知らない山國を尋ねて、今日やっとお會いできたのは夢でありましょうか】

  鶴鬆が母親と「知らぬ山國」を訪ね歩きようやく父に逢えた喜びが述べられているが、そこには、演戯故事で記されているような首裏へ戻ろうといった言葉が綴られていない。たとえ貧乏な生活をおくっても父親に戻ってきて欲しいという切ない気持ちを表すことなく、舞台上では親子の强い絆と家族愛を表出し、物語は展開していく。その鶴鬆の言葉に対して、演戯故事の中で森川の子は以下のように答えている。

  森川曰汝幼稚者多費心氣是亦誰使然哉蓋以被生於□(薄ヵ)福父母故也然昔相别時汝在赤子今看汝長成喜出望外吾心亦同汝情意

  【森川は「幼いお前に心配をかけてしまった。これはまた誰がそのようにさせたのだろうか。福の薄い父母のもとに生まれてきたからであろう。昔、别れたときにお前は赤子であった。今お前の成長をみられたことは思いがけない喜びである。私の心はお前の気持ちとおなじである。」と言った

  「吾心亦同汝情意(私の心はお前の気持ちとおなじである)」という言葉に、森川の首裏に戻り家族一緒に暮らしたいという思いが込められている。

  この部分、組踴台本には森川の子の詞章として以下のように記されている。

  森川の子

  あゝ、わらべあてなしの朝夕物思て、憂きくれしやしゆすも誰がしちやることが、果報も無いぬ親に産つたる因果。やあ鶴鬆よ、赤子の時分别れやりをれば、あはれおもがほも夢現ごゝろ。かにある引合や夢やちやうも見だぬ。

  【森川の子

  ああ、童あてなしの朝夕の物思い、憂き苦しさは誰がしたことか、果報も無い親に生れた因果である。やあ鶴鬆よ。赤子の時分に别れ、赤子の顔が夢のようである。このような引き合いが來ようとは、夢にも思わなかった。】

  組踴台本の詞章と演戯故事の内容はほぼ同じである。しかし、組踴台本には演戯故事に記された「吾心亦同汝情意(私の心はお前の気持ちとおなじである)」が見られない。演戯故事のこの言葉は、上述したように「只願早回舊借永修素業(早く舊籍(首裏)に戻り、末永く(貧しくとも)士族の生業につくことを願うだけです。)」という鶴鬆の願いに答える言葉である。組踴台本の詞章では記されていない、こうした言葉は、演戯故事の中で、冊封使に故事の内容の理解を深めるため加筆されたものとして捉えていい。そうした舞台上での心情説明を付加するのも解説書としての演戯故事の特徴のひとつでもある。

  まとめ

  首裏士族であった森川の子は花売に身を落とし、大宜味間切で日々不遇な暮らしを送っていた。森川の妻で士族の乳母となり、何とか生活する糧を得た乙樽は、子の鶴鬆をつれ首裏から遠く離れた北部の大宜味間切でやっとの思いで夫を探し出し、首裏に戻り家族の団らんを再び築くという家族の强い絆、そして家族愛を故事の基軸に據えるのが「花売の縁」である。

  演戯故事の漢訳は組踴台本の詞章に則して行われていることから、演戯故事の内容については、台本とほぼ同じ漢訳がなされている。しかし漢訳が全て台本の詞章と一致するとは限らない。上述したように、森川の子が、妻子と遠く離れていても士族の振る舞いを忘れず、またひたすらに乙樽と鶴鬆を思う様子を謡う薪木取の琉歌の部分は、演戯故事では漢訳されていない。この部分は、あえて訳さなくても物語の展開の中ですでに狀況は理解できることから、冗長になることを避け、演戯故事では細やかな漢訳がなされなかったのかもしれない。

  それとは逆に、森川の子が妻子と會った際に演戯故事に記された「吾心亦同汝情意(私の心はお前の気持ちとおなじである)」が組踴台本にはみられない。演戯故事に記されたこの言葉は、上述したように「只願早回舊借永修素業(早く舊籍(首裏)に戻り、末永く(貧しくとも)士族の生業につくことを願うだけです。)」という鶴鬆の願いに答える表現である。このように組踴台本の詞章では記されていない表現が、演戯故事には加筆されている。この表現は舞台での展開を細やかに指示する組踴台本にあっても違和感はない。しかし、相互に交わされる登場人物の詞章で、劇を見ている者が狀況を理解できる設定が舞台上でなされているため、記されなかったのであろう。しかしながら、故事の説明をする演戯故事の史料の性質上、物語を展開させる重要な語りとして加筆されている。上述したように、舞台の音楽効果や立體的なビジュアルな表現を搆築することを目指す台本とは異なり、演戯故事は劇の筋を伝えることに重點を置く漢文の解説書であることから、情景描寫にこのような差異が見られることがある。またそこが解説書としての演戯故事の特徴のひとつであり、演戯故事と組踴台本との比較分析をおこなう際、そうした両者の文書としての性質に立脚した視點が重要となる。

  「花売の縁」では、故事の本筋とは異なるが、猿引と猿が登場し、娯楽性を高めるシーンがセットされている。組踴は4、5ヶ月にも及ぶ長い冊封使の滯在中に挙行される演劇の娯楽性が表れている。そのため、故事のあらすじのみを辿るのではなく、娯楽性も付加されている點も組踴の性質を知る上で重要である。

  物語の展開を説明する解説書に「演戯故事」とタイトルを付けたことからも理解できるように、組踴は「故事」に関する演戯である。組踴「花売の縁」は、士族身分でありながら「下層民」に身を落としていく近世琉球における「屋取人」という士族人口の増加に伴う下級士族の社會問題を取り上げ、大宜味間切について実際の情況を描寫する形で物語は展開していく。組踴「花売の縁」は、近世琉球における社會の「実態」と理想の「家族観」などの「脚色」を交えて上演されているといえよう。

  中國においては「女人の節義」も重要視され、時に皇帝が節義ある女人を褒賞し、褒賞された家の前には、それを稱える牌坊が建てられたりしていた。組踴「花売の縁」を観劇した冊封使は、十二年という歳月が流れても、ただ夫を思い、子を思う貞淑な女性として表象される乙樽に「女人の節義」を强く感じたであろう。組踴の多くが仇討物、忠義ものであることから、これまでの研究ではそうした視點が見落とされている。豊見山和行は「御教條」により、「女人の節義」として夫婦が最後まで添い遂げることと父子の関係を取り持つ関係が重要であったと指摘している。組踴の中で、「花売の縁」は數少ない「女人の節義」を前面に押し出した作品であることにも注目したい。

  冊封使が來琉中に、那覇では「評価貿易」という冊封船でもたらされた貨物の貿易が展開されていた。毎回、高く売りつけたい中國側とそれを買い取る王府側との間で商品価格をめぐって摩擦が生じていた。「道光十八年冠船付評価方日記」の道光十八(1838)年七月九日條に王府側から冊封使節団に対し、琉球が「窮寠小邦」であると述べ、我が國は困窮した小國であることを理由に買い取り価格を下げる交渉を執拗におこなっている。「花売の縁」の中では下級無禄士族が王府内で奉職することができず「屋取人」に身を落とし、乳母となった妻の女手で家族が支えられるという貧しい実態を見せている。組踴「花売の縁」は、そうしたイメージを特に强く抱かされる作品であるということも最後に指摘しておきたい。

  一方で、冠船蕓能で上演された組踴を検討するにあたり、近世中國における社會狀況や様々な故事などをより深く検討し、冊封使が組踴をどのように観劇したのかを総合的に考察することを今後の課題としたい。

  參考文獻

  【史料】

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  10.又吉康和「花賣之縁」又吉康和編『南鵬』第2巻第1號、冲縄縣海外協會、1926.12。 

  【新聞資料】

  1.藪の鶯「花売の縁」琉球新報、1910.4.29~5.2。

  2.山裏永吉「組踴雑感 「花売の縁」の作者(上)」1965.11.9、琉球新報、朝刊8面。

  3.山裏永吉「組踴雑感 「花売の縁」の作者(下)」1965.11.10、琉球新報、朝刊8面。

  *本稿は、JSPS科研費16J02726による助成を受けたものである。
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